週五與朋友一起去看非常林奕華之三國

這是影迷第一次欣賞所謂中國四大名著的改編系列

每個演員的口白 肢體動作的配合 真的......一個個都實力雄厚

特別是把三國的各個人物之間的對談  用文言文唸出來的功力

再用現代語言的角度來詮釋 真是絕妙

不是一個人出色  而是每一位都很到位都有實力讓人看了入戲

 

所謂的「以經典為基礎而重新起飛」的戲劇

對影迷來說  實在是太具吸引力了

看過這次的三國

對過往的水滸傳 西遊記 充滿了好奇

更對紅樓夢賈寶玉的戲碼在台灣的公演充滿期待

 

三國  是一個非常特別的時代

三顧茅廬 三氣周瑜

連這個三的數字 也成為獨特的段子

從赤壁之戰的借東風 既生瑜何生亮的無奈

戲劇 真的能讓觀者充滿了感動

結合了古典的題材,讓人忍不住想在看看這些只在求學階段努力鑽研過的古典文學作品

 

三國的題材在今日在電玩界 在電影戲劇 在企業商場上無不出現

英雄們精忠報國的心願 需要有舞台才得以發揮

在華人世界如果說是三國時代

那在日本,

或許幕末的動亂時期就是浪人武士們一個最浪漫的舞台了

 

雅人桑在2004年演出NHK的新選組中的軍師角色 山南敬助

影迷正在抽空慢慢的觀看這部作品

 

是說,影迷特別喜歡在某些時期買書 

若要買日雜 正月新年之前的歲末是最佳時機

因為這時候各家雜誌都會發行元旦特別號 ,往往有些特別的企畫

聽說在新年特大號的週刊文春中....脚本家浅野妙子就對雅人桑飾演這個角色充滿了稱讚

影迷晚一點拿到書之後,再來看看劇作家究竟是如何說雅人桑好話的

 

附帶說一下那位武士的家計簿的原作者,已成為雅人桑好朋友的歷史學家磯田先生,

聽說最近也在上電台時對雅人桑稱讚再三.

他說「堺真的是一位很棒的演員 在表演時,他都會好好的鑽研,有時還問到連我都不知道的範圍呢

加上他是一位非常有趣的男人 請各位粉絲把他視為榮耀吧  因為他真的是一位很棒的演員」

 

哇!  接連聽到劇作家及原創作者都稱讚雅人桑....真的會讓成為雅人迷的影迷也與有榮焉起來了

 

 

雅人桑的和服扮像真的很無敵

 

SM-2004-新選組-1  

 丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔  

這是對山南敬助的描述,找雅人桑來演,實在是太吻合了......

 

 

看到網友製作了這麼一個充滿中文美感,又有日本古典的PV

一定要來好好欣賞一下    

  

 堺雅人 「新撰組」PV 《山南 ☓ 近藤》

 

 

笑嘆詞窮  古癡今狂終成空

刀鈍刃乏  恩斷義絕夢方破

路荒遺嘆  飽覽足跡沒人懂

多年望眼欲穿過

紅塵滾滾我沒看透

自嘲墨盡 千情萬怨英傑愁

曲終人散 華髮鬢白紅顏歿

燭殘未覺 與日爭輝徒消瘦

當淚乾血盈眶湧

白雪紛飛都成空

 

 

 伊東甲子太郎悼念山南之死所作的兩首詩

 

  春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな

  吹く風に しぼまんよりも 山桜 散りてあとなき 花ぞ勇まし

 

 

 

for reference (from wikipedia)

人物像

その心優しく温厚な性格から山南は壬生の女性や子供たちから慕われており、その界隈には「親切者は山南・松原」という言葉が明治のはじめ頃まで伝わっていた。また隊士からも「サンナンさん」と呼ばれ親しまれていたという。『新選組遺聞』には「芹沢などと違い、隊内の者にも、壬生界隈の人たちにも評判が良かった」という旨の記述があり、山南の切腹の際には、鬼の副長として有名な土方でさえも涙を流したと伝わるほどである。

それでも八月十八日の政変に際して御所警備に出動する時、近藤や土方がすでに甲冑に身を包んでいるのに対し、山南には甲冑が調達されなかったことにいたく立腹したという逸話も伝わっているが、この時は親しかった松原忠司に宥められている。

文武両道の人としても知られ、新選組のスポンサーだった小島鹿之助は「武人にして文あり」と評している。新選組に対する酷評で知られる西本願寺の西村兼文も『壬生浪士始末記』で山南を「少しく時理の弁えある者(少しは物事の筋道がわかる人)」と好評している。

壬生時代の新選組の幹部が宿所とした八木家の子だった八木為三郎によれば「丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔」で、「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけた」(『八木為三郎老人壬生話』)という。

 

 

 

 

山南 敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、天保4年(1833年)- 元治2223日(1865320日))は、新選組の副長・総長をつとめた幕末の武士。陸奥国仙台藩出身。諱は知信(とものぶ)。晩年は三南三郎を名乗っていた。

 

名字の「山南」読みについては「やまなみ」と「さんなん」の二通りが考えられている。一般には「やまなみ」が広く知られているが、本人の署名に「三南」や「三男」としたものがあるため「さんなん」の可能性も高いと考えられている。ただし幕末には自称他称に有職読みを用いることが流行していた背景もあり、確かなことは不明である。

 

 

 

近藤との出会い

 

山南敬助の生い立ちに関しては分かっていないことが多い。仙台藩を脱藩して江戸に出たと伝わるが、仙台には山南もしくは三南という苗字はない。

 

江戸では小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流の千葉周作門人となった。近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。この時、近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、以後は試衛館の門人と行動を共にするようになる。試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三・沖田総司・永倉新八らが集っていた。文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤の天然理心流四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。翌年正月には沖田と共に小野路に剣術教授に出張している。

 

壬生浪士組副長に 

 

文久3年(1863年)2月、将軍警護と尊王攘夷を目的に清河八郎が浪士組を組織すると、山南は近藤らとこれに参加して上洛する。まもなく清河が攘夷実行を掲げて江戸に帰還することになると、これに反対した水戸藩浪士の芹沢鴨や近藤らは京都に残り、山南もこれに従った。この一隊が京都守護職を務めていた会津藩預かりとなって壬生浪士組を名乗るようになる。その後主導権争いから3月から4月にかけて殿内義雄と家里次郎が粛清され、これにより芹沢派と近藤派が壬生浪士組を牛耳ることになると、山南は近藤派の土方歳三、芹沢派の新見錦と共に副長に就任した。

 

 

岩城升屋事件 

 

浪士組の流れを引く壬生浪士組は、本来は尊王攘夷を掲げて結成された組織だったが、会津藩預かりとなってからは不逞浪士の取締りに専念するようになる。

 

文久3年(1863年)7月、将軍徳川家茂を警護するために大坂滞在中、高麗橋傍の呉服商・岩城升屋に不逞浪士数名が押し入る事件が起きた。山南は土方と岩城升屋に駆けつけ、激戦の末に不逞浪士を撃退した。この功により山南は松平容保から金8両を賜っている。

 

このとき山南が使った「播州住人赤心沖光作」の銘が入った285分(約86.4センチメートル)の刀は、激しく刃こぼれして切っ先から11寸(約33.3センチメートル)のところで折れている。この刀の押し型(刀の形を紙に写し取ったもの)は土方の手で小島鹿之助に送られ、現在も小島資料館で見ることができる(ただし展示品は模写)。

 

大正13年(1924年)に刊行された『維新史蹟図説』によれば、この事件で山南は左腕を負傷したという。

 

 

新選組総長に 

 

8月の八月十八日の政変に際した御所警固にも山南は出動し、その2日後に京都に潜伏する長州系浪士を土方らと斬っている。

 

9月には再度の主導権争いにより筆頭局長の芹沢と副長の新見が粛清され、壬生浪士組は近藤派によって統一された。その後の組織再編で山南は新設された総長となり、局長の近藤、副長の土方に次ぐ地位に就いた。しかしこの事件以降、後に脱走するまで、山南の名は新選組の活動記録から消えてしまう。

 

元治元年(1864年)65日の池田屋事件にも山南は出動していない。永倉新八の手記『浪士文久報国記事』の同年626日の条には、山南が病気のために屯所に引き込んでいた旨が記されているものの、その消息は杳として知れない。

 

同年11月、山南とは同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者として学識も高かった伊東甲子太郎が新選組に入隊。伊東のために山南よりも上席の参謀を新設して迎えるという破格の待遇だったが、これで山南は幹部としての立場を失っていくことになった。

 

 

 

脱走と最期

 

元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませた。新選組の隊規で脱走は死罪に他ならない。近藤と土方は直ちに沖田を追っ手として差し向けた。沖田ひとりを派遣したのは、弟のように可愛がっていた沖田ならば山南も抵抗しないだろうという土方の思惑によるものといわれている。大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻された。

 

脱走原因には諸説ある。西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったという。新選組は隊士が増えて壬生村が手狭になったことから屯所を京都市内の西本願寺に移したが、これには西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも近い関係にあるという背景が介在した。近藤はあえてその西本願寺に屯所を移してこの地を抑え、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたのである。勤王の志が強い山南はこれに強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、こののち山南は新選組との決別を意識するようになったという。

 

伊東や、試衛館以来の親交があった永倉からは再度の脱走を勧められるが、山南は死の覚悟を決めていた。なお永倉の配慮によって、山南が馴染みにしていた島原の遊女・明里が死の間際の山南のもとに駆けつけ、今生の別れを告げたと伝わるが、その永倉本人の手記『新選組顛末記』や『浪士文久報国記事』には明里についての記述が一切なく、現在では子母沢寛による創作の可能性が高いと考えられている。

 

元治2年(1865年)223日切腹。介錯は山南の希望により他ならない沖田がこれを務めた。享年33。その最期を近藤は「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛したという。墓は京都の光縁寺にある。

 

 

 

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