雅人桑遲遲沒露臉

不過看來倒是看了不少書

也很認真的在筆耕的樣子

 

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前幾年 雅人桑都會上達文西的封面  不知道為何今年一點跡象都沒有

難道是因為現在成為文藝春秋出版社的專屬  而不再上角川系統的雜誌嗎?

不過這樣說也不對 因為九月一日岩波書店發行的"圖書"刊物

也有一篇雅人桑的文章發表

 

先輩俳優、西田幾多郎     堺 雅人

 

只可惜這本書在網上不送海外

明天再問問書局進不進雜誌

不然就只能拜託日本朋友幫忙買囉

 

西田 幾多郎  何人也

雅人桑為何會想寫他呢?

milanhime 才淺學不精  只好去請Google大神指示

 

一看真的不得了 

milanhime真的很好奇 雅人桑究竟如何下筆來寫這位西田先生呢?

學生時代好像哲學概論是必修  不過.....現在通通還給老師了

milanhime喜歡赫曼‧赫塞(Hermann Hesse)

進入社會後 《鄉愁》、《徬徨少年時》、《流浪者之歌》好像逐漸成為青春的回憶

年輕時 流行音樂聽比較多  年長後  發現現在越來越能夠靜下心來好好的欣賞古典樂了

 

或許  雅人桑之前的人生 需要為了養活自己而努力

去年成家也立了業  今後的人生可以選擇自己想走的路

或許透過筆耕  也是他人生的另一種生活的實踐

 

 

以下是雅人桑在GQ雜誌年度人物採訪時提到的內容

不曉得岩波書店的圖書雜誌中的內容是否相似

 

 演技論の答を哲学書に求めた

好きな映画とか好きな監督とか、好きなドラマでもいいんですが、挙げていただけないでしょうか。

「ないです。すみません、僕はあまりフィクションが好きではないんです」

フィクションを鑑賞することがあまりお好きでないとすると、小説も読まれない?

「小説もあまり読まないです。ルポルタージュしか読まなくて、ドラマも映画もほとんど観ないですね」

この撮影でもドラマでの演技でも、フィクショナルな空間を作り出すことで観る人をうならせる堺さん本人が、フィクションが嫌いだというのは大変興味深い。小説はあまり読まない堺さんであるけれど、ルポルタージュのほかに哲学書にも影響を受けているという。

「全然詳しくはないんですけれど、学生時代の(ルートヴィヒ・)ウィトゲンシュタインだとか、西田幾多郎だとかを、読んだりしていました」

ウィトゲンシュタインを読むのは珍しくないですか。非常に難解な論理哲学ですよね。

「全然わかっていないんですけれど、“語りえぬものについては、沈黙しなけらばならない”という有名なフレーズを自分の仕事に置き換えると、“役者ができるところは一所懸命考えて、その先は潔く沈黙しなければならない”ということになると思いまして」

西田幾多郎も難しい……。

「『善 の研究』しか読んでいないんですけど、いい芝居ってなんだろうと考えることと、善ってなんだろうって考えること、いいってなんだろうと考えることは、実は そんなに離れていないような気がして。あと、日本人の演技論って固まっているようで固まっていないというか、あるようで、ないようで……」

俳優としての職業意識については考えないという堺さんであるけれど、「いい芝居とは何か?」については深く考えているのだ。面白い。言葉の続きを待つ。

「演 技論を見つけたいという想いと、急ごしらえでも初めて日本人の哲学を手作りしようとした西田幾多郎の人生っていうのが少し重なって、どっかにヒントになれ ばいいなと思ったことがありました。2、3年前に京都でちょっと長いロケがありまして、哲学の道でも歩きながら西田幾多郎について考えようっていうマイ・ ブームがあったんです。日本人の演技論って歌舞伎とか能といった古典だといろいろあるんですが、現在の演技論がピンとこなくて……」

たとえば戦後間もないころだとか、そこまでいかなくても1970年代、80年代ごろには、演技論や演劇論を戦わせるのが俳優としての日常の一部だったように思う。それがいいとか悪いとかではなく、そういう時代だったし、そういう社会だった。

今の時代にあって演技論や演劇論を真剣に考えている堺さんは、少し異質な存在に思えます。

「僕 は別に素養としてやろうとしているわけではなくて、たまたまだったんです。逆に議論を戦わせなくてもお芝居ができて共存しているっていうのは、平和で豊か な芸能の状態かもしれませんし。演劇論ばかり戦わせても、もちろんいいこともあるかもしれませんが、くだらないやつが威張るっていう可能性もありますか ら。飲み屋で、芝居がつまらないのに持論をぶってるやつもいたでしょうし。なに言ってるんだ大根のくせに(笑)、っていうのもあったかもしれない」

 

 

 

 

 

 

以下是milanhime的data for reference

青空文庫的書籍文字檔是很棒的寶藏  要看古早的文人書籍  青空文庫是非常好的資料庫

 

西田 幾多郎    にしだ きたろう   Nishida, Kitaro

生年:    1870-06-17    没年:    1945-06-07

人物について:    石川県生まれ。1896(明治29)年に金沢の第四高等学校講師、次いで教授となった。1911年(明治44)に発表した「善の研究」で、その西洋哲学と充分比肩しうる独創性で日本の思想界に衝撃を与える。その後も西田は「善の研究」の〈純粋経験〉の立場に長年にわたり厳しい批判を重ね、ついに〈場所の論理〉に到達する。その後、マルクス主義の台頭を睨みつつ〈歴史的現実世界〉の問題と取り組み、〈場所〉を〈弁証法的世界〉として具体化し、〈絶対矛盾的自己同一的世界の自己限定〉として〈歴史的実在〉の世界をとらえる立場を展開した。 近年になって脱構築の流れに乗って世界的な再評価が進んでいる哲学家の一人である

 

 

 

「善の研究」自序

 この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、 すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思 想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。
 この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明(あきらか)にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積(つもり)で あるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余 が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的 研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。
 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有(も)っていた考であっ た。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験 が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂に この書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。
 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲(あざけ)らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已(や)むを得ぬことであろう。

 

 

   這是中文的維基的檔案:

 

西田 幾多郎(にしだ きたろう,1870年6月17日-1945年6月7日),日本哲學家,京都大學教授,為京都學派的開創者與領導者,同時也是一位俳人。1940年,他從京都大學退休後,得到日本文化勳章。

 

西田幾多郎與鈴木大拙為好友,兩人為石川縣專門學校(後改稱第四高等學校)同窗。四高時期,西田與另一位同學金田良吉(後改姓山本,為教育家),由於不滿學校「武斷」、「一味提倡規則」的校風,不時與校方發生衝突,最後西田只好選擇中途退學。但也因為如此,在1891年他進入東京帝國大學文科大學時,無法進入正規課程,只能成為選科生。此時期他受到與正規學生截然不同的待遇,使得心思敏感的他感到屈辱與神傷。 

西田幾多郎於1894年東大畢業後,隔年開始在中學教書,並與第一任妻子山田壽美結婚。在擔任四高教授期間,他一生中八個子女中的兩個女兒相繼夭折。1910年他進入京都帝國大學擔任副教授,隔年出版哲學處女作《善的研究》。1923年長子謙逝世,兩年後妻子壽美也逝世。種種人生的悲哀,對其一生的思想有很大的影響。1931年與山田琴再婚。[1]  他經常在琵琶湖疏水畔散步的步道,被稱為「哲學之道」。其著作《善的研究》,被高橋里美譽為「恐怕是日本人最初,且唯一的哲學書」。他重視主體性的思維,曾經提出「純粹經驗」、「場所邏輯」、「絕對無」等哲學理論。

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